ブルートレインの気軽な旅
実施日:2005年9月28日
旅行先:倉敷→新大阪


 沖縄の本土復帰を願い、登場した特急列車があります。
 当時沖縄には鉄道がありませんでしたが、沖縄に近い西鹿児島へ向かうこの列車に、沖縄の県庁所在地の名が付けられました。
 その名は“なは”。南国の象徴であるヤシの木をデザインしたヘッドマークを誇らしげに掲げ、新大阪〜西鹿児島間を熊本経由で結びました。現在は熊本から先が廃止され、役目をリレーつばめと九州新幹線に譲っています。

 登場したのは1968(昭和43)年10月1日。いわゆる『ヨン・サン・トオ』のダイヤ改正の時でした。その頃はキハ80系気動車(1973年10月に、485系電車に交代)を使用した昼行特急で、大阪〜西鹿児島間の運転でしたが、1975(昭和50)年3月の新幹線の博多延伸によって寝台特急に変身し、新大阪始発になりました。
 寝台特急への変身後は昼夜問わず頑張る電車寝台581・853系が使われ、1984(昭和59)年2月から現行の24系客車へと変わりました。そして夜行バスに対抗すべく1990(平成2)年に登場したレガートシート車は、普通車でありながら3列シートを採用し、そのリクライニング角度も60°という、およそ普通車離れした存在でした。
 レガートシート車には高価な寝台料金が不要。昼間の特急と同じ感覚で利用できるため、寝台特急の区間利用も現実的なものにしました。

 レガートシート車の他にも、一人用個室“ソロ”や二人用個室“デュエット”という豪華設備が登場しましたが、それでも寝台特急の客離れに歯止めがかからず、 “なは”は2005年10月1日のダイヤ改正で、ついに特急“あかつき”と併結運転になりました。その上、レガートシート車も “あかつき”のものに吸収されて“なは”から外されることになってしまいました。
 “なは”はJR九州が受け持つ列車なので、上り列車のレガートシート車は運用の関係から、 9月29日に新大阪に到着する列車で終了です。

 “なは”のレガートシート車は、485系特急形電車のグリーン車、サロ481形を改造して作られた、オハ24形300番台です。種車のサロ481形が数少なくなった現在では、その面影を残す貴重な車両となっています。
 そこで今回、倉敷から東京へ帰る際、新大阪まで廃止直前のレガートシート車を区間利用し、東海道・山陽本線の昼行特急の旅の雰囲気を味わってみることにしました。

 

 

 6時半。倉敷は秋の凛とした空気に包まれ、今まさに目覚めの時を迎えておりました。
 日の出をとっくに迎え、雲の切れ間からきれいな青空が覗いています。
 “なは”が出るホームは3番線。その発車案内を示すLED表示器には、しっかりと、“特急 なは 6:34 新大阪”の文字が出ています。でもこれも、あと3日後にはあかつきと併結に変わり、時間も、まだ日の出前の、真っ暗な時間に変わってしまいます。
 到着放送の後、いよいよ“なは”が姿を現しました。EF65-1126号機に牽かれ、電源車を含め8両の青い客車が静かにホームに据え付けられました。
 ドアが開き、7号車のオハネフ25形から乗ろうとすると、車窓さんがすかさず『特急料金がいりますよ』と声をかけてきました。きっと、普通列車と乗り間違えないようにするための配慮なのでしょう。
 昼間の客車列車がJRから全廃された今、早朝の明るい時間に客車に乗る機会なんて、きっと今回くらいなのかも知れません。かつて伯備線を走っていた12系普通列車のことを思い出しながら、乗り込みました。
 無人の解放式B寝台車を抜け、レガートシート車の6号車に入ると、ミニロビーに出くわしました。窓辺に作られたカウンターに向いて丸椅子が並ぶ様子は、まるでバーカウンターのよう。でもこの設備も、見納めです。なので資料写真をガンガン撮りました。ちなみに乗ったのはオハ24形300番台のトップナンバー、301号でした。
 写真を撮っているうちに列車は静かに発車し、駅構内の出口にある寿町踏切を渡って倉敷の市街地に別れを告げました。見慣れた建物、買い物に出かけたスーパー、この前列車を撮影した場所……。なじみの場所が次々と車窓を通り過ぎ、列車はどんどん速度を上げていきます。
 撮影を終えて客室に入ると、そこにはど派手な色の座席が並ぶ空間がありました。最期なのだからきっと乗客も多いことだろうと思いましたが、なんと乗っていたのはたったの3人だけ。ちょっと拍子抜けです。

 それにしても、何だか空気が暑い!
 なんと、暖房が入っていたのです。そうか、もうそんな時期になったのかぁ。季節の移り変わりを思わず感じてしまいました。
 車内検札が終わる頃、列車は全速力で中庄駅を通過。ホームにはこの後の姫路行き普通列車を待つお客の姿がちらほらとありました。
 雷鳴とどろく土砂降りの中、ここからバスに乗って、CONVEX岡山で開かれた同人誌即売会 “ぶちすげぇコミックバトル40”にサークル参加しに行ったことを懐かしみながら、ホームを見送りました。
 中庄から庭瀬にかけては、水路と平行して走ります。水路の向こう側はすぐに生活道路となり、一戸建て住宅や水田が並びます。のどかそうなこの風景も、大雨が降った後や田植期などで水かさが増しているときには、道路の一部が水路と一体化することもあります。
 車内放送が再開され、減光されていた室内が一気に明るくなりました。車掌さんは各駅の到着時刻を放送した後、岡山駅での乗り換え案内に移ります。 7時過ぎののぞみ号に乗ったなら、おそらく10時過ぎには東京駅に着くでしょう。でも今回は、新大阪から先は新快速と普通列車を乗り継いで行きます。

 庭瀬駅を通過すると間もなく右手に貨物ヤードが現れ、工事中の新駅を通過。この駅の向こう側には、これまた岡山の同人誌即売会の会場としても使われる、岡山ドームの丸い建物が見えます。きっとこの駅ができたら、ドームへの足も便利になることでしょう。
 そして今度は左側に岡山電車区の車両基地が現れ、朝寝中の様々な車両が姿を現します。おや、あそこには色褪せたEF64がいますよ?きっと、保存されている初号機かも知れません。その先には、ハイパーサルーンゆめじもいます。
 新幹線の高架と並走を始め、左から津山線の線路が現れました。その線路上を走る2両編成のキハ120とすれ違い。おいおい、特急と接続せずに行っちゃうのかよ。次の列車まで結構待たされそう。こんな事だから鉄道離れが進んでしまうんだ。
 岡山駅でもたいした人の動きはなく、そのまま発車。岡山の市街地を抜け、旭川を渡る頃には、北の空から雲が少なくなってきました。
 赤穂線を分かつ東岡山を通過、車窓は水田とお山の風景に変わりました。お山はどれもお椀を伏せたような形をしています。何だか丘(岡)みたい。きっと岡山という地名は、こんな風景から名付けられたのかも知れません。
 座席を最大限にリクライニングさせて、窓から美しく広がる青空を眺めます。線路のジョイント音をBGMにして、まったりする。こんな時間の使い方も、きっと鉄道旅行だけに許された贅沢なのかも知れません。
 しかし、その静寂は、ウィ〜ン、ジョリジョリジョリ……という音によって破られました。斜め後ろの座席に座っている中年男が、髭を剃り始めたのです。おいおい、それは洗面所でやってくれよ。数分間に渡って、不快な音が鳴り響きます。まだ寝ている人だっているんだぞ。壮年期を迎えた奴が、周りの迷惑を省みないなんて、困ったものです。
 ひげ剃りが終わると、今度は車内の暖房が冷房にいきなり切り替わり、送風機が音を出し始めました。きっと暖め過ぎたに違いない。
 ムーンライトながらを利用した後、いつもここで三原行きに乗り換える相生駅を通過。もう通勤・通学時間が始まっており、ホームには高校生がたくさんいました。
 網干を過ぎたあたりでミニロビーに移ってみる。右側の車窓を見ているうちに姫路駅に到着。姫路では4分間停まるので、ホームに出て撮影をしました。私の他にも、この列車を撮影している人の姿をちらほらと見かけました。隣のホームの新快速を先行させ、その2分後に“なは”は発車。
 ここで車内販売が乗り込み、弁当などを買えるようになりましたが、終点まではあまり時間がなく、食事をしている暇もなかろうと思い、結局何も買いませんでした。
 歩いて渡れるくらいに水が引いた市川を渡り、その後は小さな駅を次々と通過していきます。高架駅となった加古川は、221系の普通列車を待避させて堂々と通過。この普通列車は、きっとさっきの新快速の待避も行ったに違いない。優等列車が多いと、普通列車は待避が多くなって余計に時間がかかってしまいます。
 西明石駅から先は、緩行線と一緒。引き込み線には、最新型の321系の姿もあります。そしてライバルの山陽電鉄とも一緒です。
 明石海峡大橋を見ることを楽しみにしながらミニロビーで車窓にかじりついていると、後方からその山陽電鉄の車両が接近してきました。車両は普通列車によく使われる3000系。山陽電鉄は駅数が多いから、寝台特急には絶対に勝てっこないもんね〜♪と思っていたら、相手も特急でした。
 3000系は小駅には目もくれず、強力な主電動機に物言わせてどんどん追い上げてきます。明石海峡大橋が行く手に見えた頃、ついに寝台特急が抜かれてしまいました。でも寝台特急だって負けてはいません。今度は抜き返しにかかります。再びそのパノラミックウィンドーな前面が見えた頃、山陽電鉄は山陽本線の上を高架でまたぎ越し、車窓から姿を消しました。
 明石海峡大橋の下をくぐるとすぐに海側は松林となり、橋が隠されてしまいました。
 この松林は防風林としての役割を果たしてくれるのでしょうが、それにしても邪魔。誰だ、こんなの植えたのは!
 松林を過ぎた頃には、橋の姿はかなり小さくなっていました。
 橋が見えなくなっても、美しい瀬戸内の景色は続きます。
 灰色の雲の下に積雲がわき上がり、独特の空模様を成しています。その下に広がるのは、やはり灰色の海。堤防の上には何やら骨組みだけの変な構造物が並び、もしかしたらここに板などが張られて海が見えなくなってしまうかも。よし、今のうちに見ておこう。
 海が過ぎ、高層ビル街に突入すれば、神戸駅を通過。ここで山陽本線が終わり、東京まで続く東海道本線になります。
 列車が走る高架下は商店街になっており、様々なお店が並んでいます。神戸独特の物を売っているお店もあるかも知れません。
 そうして列車はすぐに三ノ宮に到着。なぜ神戸に停めずに三ノ宮に停めるのかが不思議ですが、ここも利用客数が多いのでしょう
 三ノ宮を発車すれば、大阪はもうすぐです。通勤ラッシュも終わりを迎えたこの時間帯ですが、すれ違う4ドア通勤電車の本数は意外と少ない様子。
 悪名高き女性専用車両も、そのせいで異様に混むとされる両隣の車両も、時間帯や区間のせいか人がまばらです。ちなみに女性専用車両は、そろそろ解除の時間。
 この区間でよく目にする水色の201系は、間もなく後継車両の321系に置き換わり、オレンジ色になって大阪環状線に転用されるとのこと。なので、水色の201系が行き交う光景も、過去の物になってしまいます。
 さらに207系も、先の福知山脱線事故を彷彿させるとして、帯色の変更が行われるそうです。

 大都市の景色になった頃、列車は大阪駅に到着しました。
 ホームの壁にはサンダーバード681系の形をした物があり、その窓の部分が広告スペースになっています。サンダーバードが出る前は、EF65の牽くブルートレインの形をしていました。
 ホーム上では、たくさんの人たちが“なは”を撮影しています。中には動画を撮る人も。
 しかもなかなか信号が変わらず、列車はいつもより長い時間、その場に留まることに。きっと撮影者は、心ゆくまでゆっくりと撮影できたことでしょう。
 結局“なは”は、10分遅れで大阪駅を発車しました。遅れの原因は、今朝8時頃に、福知山線で起きた人身事故でした。
 東京寄りのホーム端に集まったたくさんのカメラに見送られ、“なは”は最後の一区間へと歩み出しました。
 名残惜しさを感じながら、すぐに終点の新大阪駅に到着。
 客室内を撮影した後、速やかに隣のホームに移動してレガートシート車の“形式写真”を撮影。そのホームの東京寄りには、小型デジタルカメラを構えたサラリーマンたちがいて、列車を最後まで見送っておりました。


今朝関西入りしたオハ24形301は、その日の夜に下り“なは”で新大阪を出発。翌朝熊本へ到着し、現役を退きました……。


おしまい。
 



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