EF63形電気機関車
 


EF63形電気機関車は、1962(昭和37)年に登場した直流電気機関車です。
信越本線横川〜軽井沢間にある碓氷峠を越えるために作られた専用の補助機関車で、碓氷峠の急勾配を安全に越えるための数々の仕組みが装備されています。横川〜軽井沢間を走る全ての列車に連結され、列車の進行方向に関係なく必ず麓の横川側に連結されます。さらに安全性確保のため、必ず重連で使用されます。
1976(昭和51)年7月までに25両が製造されましたが、24・25号機は1975(昭和50)年10月28日に脱線・解体された5・9号機の補充用で製作されたため、実際は25両が顔を合わせたことはありません。
全ての車輌が横川運転区に所属し、碓氷峠最終日の1997(平成9)年9月30日まで使用されました。現在でも半数近くが保存され、特に24・25号機は横川運転区の跡地に作られた鉄道テーマパーク『碓氷峠鉄道文化むら』で動態保存されています。特別講習を受けて試験に合格することで、一般の人でも運転することが出来ます(講習と試験、運転で、合計約3万円の費用がかかります)。

◆EF63登場までの経緯◆
信越本線の横川〜軽井沢間は1893(明治26)年に開業しましたが、11.2kmの距離に対して標高差が553mもあるので、大変な急勾配になりました。その斜度は最大で66.7パーミル。1km進むと66.7mも標高が上がります。角度にすると約4°で、これはジャンボ機が離陸・上昇していく角度よりも急です。
そのため当時の技術では通常の鉄道のように車輪と線路の摩擦力(=粘着力)だけで車体を支えることが出来ず、『アプト式』と呼ばれる特殊な方法で峠越えが行われました。アプト式とは、2本の線路の間に歯車状の線路『ラックレール』を敷き、そこに機関車のギアを噛み合わせて足場を強固にする仕組みのことです。
このアプト式で70年に渡って峠越えをしましたが、その間に輸送需要は増す、通過する客車は次第に大型化し重くなる、車種によってはラックレールに機器の一部が引っかかるから通過できない、単線だから本数が増やせない、設備は老朽化する、1列車に機関車がたくさん必要で莫大な経費がかかる、そして何より隧道が小さくて架線を張れないので第三軌条方式に頼らねばならず、『電車』が直通運転できない……という理由から、線路の改良が求められるようになりました。
そこで通常の鉄道と同じように粘着力のみで車体を支え、架線から集電して電車も直通運転出来、速度も上げられる新しい線が作られることになりました。
しかし当時の国鉄にとって、これだけの勾配を粘着力で進むことは前代未聞のこと。さらに安全性も強く求められることから、より強力な専用補機が開発されることになりました。それで新線開業の前年、1962(昭和37)年にまず試験的にEF63形とEF62形の初号機を製造。新線の一部を使って様々な実験や試験が行われ、その結果を反映して翌年から量産が開始されました。新線の開業は1963年7月15日。同年9月30日までアプト式と併用され、1966(昭和41)には新線が複線化されました。
ちなみにEF62形はEF63と協調運転を行う機関車で、信越本線全体を通して使用されます。

新線の開通とEF63の登場で電車も碓氷峠を越えられるようになり、信越本線全体のスピードアップや輸送量の増加が出来るようになりました。

◆安全を守るために◆
EF63は、急勾配の登坂能力はもちろん、勾配上で『安全に停止する』力が求められる機関車です。そのため様々な種類のブレーキを搭載し、列車の暴走を防いでいます。また量産車は軽井沢側の軸重を重く、横川側の軸重を軽くすることで、勾配上で『ウイリー』しないようにバランスを取っています。さらに粘着力を上げるため、わざと重りを積んで重くしています。車輌全体の重量は108トンにもなり、乗り入れできる路線は基本的に信越本線高崎〜軽井沢間と、高崎線の大宮〜高崎間に限られます。大宮まで乗り入れできるようになっているのは、大宮工場が検査を担当しているからです。
碓氷峠ではせいぜい40km/hくらいまでしか出しませんが、性能的には100km/hまで出すことが出来ます。大宮までの往復は自力で、一般の旅客列車に負けない速度で走行します。ただ、その重さのために乗り入れできる路線が限られるので、一般の機関車としては使用出来ず、横川〜軽井沢間の廃止後は引退を余儀なくされました。

さて、EF63が搭載している主な装備は、
抑速ブレーキ:一定の速度で勾配を降りられるようにする。運動エネルギーを熱に変えて放出するため、勾配を下るEF63からは陽炎が立ちのぼる。
電磁吸着ブレーキ:急勾配上で長時間停止するのに使われる。強力な電磁石を線路に押しつける仕組みになっている。
速度検知用遊輪:速度の出過ぎを検知する。動力装置の付いていない車輪で、その回転から速度を検知する。動輪が空転しても絶対速度を確実に検出するために装備されていて、横からの振動による誤差を防ぐために、フランジがついていない。
大容量蓄電池:峠通過中に万が一停電しても、必要な電流を長時間確保できるようにするため、装備している。この電池を出し入れするために、軽井沢側に向かって左側の側面に、電池専用の搬入口が設けられている。
双頭連結器:回転させるだけで、密着連結器と自動連結器を切り替えることが出来る連結器。補助すべき列車が連結される軽井沢側(第2エンド)に装備される。碓氷峠を越える列車には密着連結器を装備した車輌と自動連結器を装備した車輌があるので、それら全てに対応するためにこの連結器が必要。但し、双頭連結器の自動連結器は、構造上ナックルを開くことが出来ない。
ジャンパー栓受け:ジャンパー栓とは車輌と車輌との間に渡されるケーブルのことで、電話や制御用の電気信号、空気ブレーキ用の空気もこのケーブルを通って伝達される。栓受けはそのケーブルを差込み、接続するソケットのこと。そのためジャンパー栓受けはどの鉄道車輌も装備している。EF63は多くの種類の車輌と連結するため、各々の車種に対応した栓受けを持っている。但し、栓受けは双頭連結器同様、軽井沢側のみに装備される。峠を越える車種の変化に合わせて、装備されている栓受けが変更されることもある。

EF63形は製造時期によって4つのグループに分けられ、それぞれ細かな違いがあります。

試作機である1号機。茶色(ブドウ色2号)1色塗りで登場しました。
1次量産車である2〜13号機。登場時の塗装は試作機と同じ。
2次量産車である14〜21号機。紺色1色塗り+前面にクリーム色の警戒帯入りで登場し、13号機までの機関車も合わせてこの色に塗り替えられました。
3次量産車である22〜25号機。塗色は2次量産車と同じ。車体番号表示が切り抜き文字の貼り付けから、プレート式になりました。

1975(昭和50)年、回送中の上り列車として走っていた5号機と9号機が、EF62形13・35号機と共に、1号隧道横川側出口で脱線、並走する道路に落下し横転。廃車解体される。
1986(昭和61)年に1号機と14号機が余剰になって引退。
1997(平成9)年3月から6月にかけて、最後の全般検査を記念して18・19・24・25号機が茶色になる。その後24・25号機は、引退してから数年後に、元の塗装に戻される。

 


↑1次量産車の2号機(手前)。1997年8月2日、軽井沢駅にて撮影。



↑3次量産車の24・25号機。1997年8月2日、軽井沢駅にて。



↑EF63の双頭連結器。拳骨状の自動連結器と四角錐の付いた密着連結器が一体化されている。
奧の、オレンジや赤い部品の付いているものは、ジャンパー栓受け。
(碓氷峠鉄道文化むらにて撮影)



↑EF63 25号機とクモハ165形の連結部分。1997年8月2日、軽井沢駅にて。






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